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航空少年団エピソード
【航空少年団:エピソード】航空少年団の思い出話です。

順不同、記憶も曖昧なので各エピソードの正確さも保証しません。

他に色々と思い出話があるはずです。「掲載してもいいよ」とのことでしたら、是非根岸(info@hobun.comまでご連絡ください。

「この事件は不名誉なので削除してね」のご依頼も受け付けます。

樺島紳一郎氏
根岸様

先日、メールを交換させて頂いてから、思い出すままに航空少年団や藤沢飛行場の記憶をたどってみました。

単なる思い出話ですから文章になっていませんが、少しは少年団発足当時の資料になるかとお送りする次第です。 少し長すぎるのでどこからでもちょん切れるように書いてあります。 この思い出話から、昔話が出来る交友が生まれれば嬉しい次第です。

樺島紳一郎


航空少年団と藤沢飛行場の思い出

 昭和31年の何時ごろか、朝日新聞の最下段の小さな囲み記事に航空少年団設立の記事が出ました。 これを見た友人小林洋治君より、一緒に入団しないかとの誘いがあったのです。

 入団の相談を両親に持ちかけると母は非常に心配したのですが父からは何の抵抗もなくOKが出ました。 父は文部省の役人で航空界には何の縁もなかった人間ですが、戦前文部省主催のグライダー指導者講習会に多少関ったことがあるらしく、その機会に往年の名グライダー・パイロットの志鶴氏や松下弁二氏に面識を得ていたと後になって聞きました。 松下弁二さんは当時大阪大学の庶務課長をされており、後年戦前のグライダー界のお話などを私自身何回か拝聴する機会に恵まれました。

 父が何故私の少年団入団を文句ひとつ言わず許したかと言うと、私が非常に引込思案で神経質な子供であったため、かねてからボーイスカウトのような団体に入れて団体生活が出来るように教育しようと思案していたところ、息子の方から話があったので渡りに船とOKを出したとのことでした。 その時父の頭の中には空を飛ぶことは危険と言う事は浮かばなかったようです。

 父の快諾を得て早速小林君と田村町の飛行館にあった青年飛行連盟の事務所に行くと先着の入団希望者が数人いました。 その内の一人が多分鈴木 崇君(海城高校二年生 当時)であったと思います。 前田仁君もその中にいたかもしれません。 面接は中川さんでした。 

 面接からしばらくたって、連盟から親への説明会のようなものがあったと思うのですが定かではありません。 しばらくすると航空少年団の結団式を行う旨連絡あり。 全員事前に購入していた制服を着て羽田に集合しました。 結団式は今思うと、何事にも完ぺき主義の小林喜作さんの気合が充分反映したもので、場所は羽田空港の真新しい空港ビル。 どこから呼んで来たのか米軍の偉いさんが出席していたりして団員の親御さん達を安心させるに充分な演出でした。 私の親がこの式に出席したかどうかの記憶はありません。 

 当時の制服は写真集で拝見するものと若干異なり、腕に学年を示すマークが縫い取られていました。 また帽子はカブスカウトの帽子のように耳覆いがあって、普段は頭のてっぺんに上げて結ぶようなものでした。 見た目は可愛いのですが、既に高校生になって、薄っすらとヒゲが生え始めた団員がかぶるにはちょっと勇気が要りました。

 この制服、一見兵隊さん風で、母はクリーニング屋さんから「息子さんは保安隊に入られたのですか?」と聞かれ、請求書には「官服一着」と書かれていたそうです。

 この辺で我々は名実共に航空少年団員になったのですが、実は今に至るも果たして親にどの位の経済負担を掛けたのかわからないのです。 入団費とか月毎の団費と言うのはあったのでしょうか?  制服のような雑費もあったと思います。 記憶にあるのは一回の飛行代が250円だったことです。 これが高いか安いかは分かりませんが、当時学校(中学校)の昼食時に菓子パンを買うと一個10円であった記憶があります。 日雇い労働者の日当が240円(ニコヨン)の時代からそう長くは経っていませんからやはり相当高かったんじゃないでしょうか。 戦後十年経っていたとは言えまだまだ一億総貧乏の時代、親は随分苦心をしたに違いありません。 雨が降ると我々はガックリでしたが親はホッとしていたのでしょう。 今からでは遅きに失しますが親には感謝、感謝です。

 この頃からは日曜毎に座学があり、飛行館屋上での手旗信号の練習が始まりました。 練習が始まる前に皆で飛行神社へ礼拝した記憶がありますが、あの神社は今も新しいビルの屋上にあるのでしょうか。

 さて、待望の藤沢飛行場。 初めて訪れたのは昭和31年の秋頃かだったと思います。 国鉄の藤沢駅からみんなで隊伍を組んで歩いて行きました。 着いてみると滑走路は想像していたものと異なり場所によっては砂利道のようで少しがっかりしました。

 飛行場にはエアキャリアと言う航空計器修理会社が隣接していたように思います。 後の関東航空計器株(野崎産業の関連会社)だと思います。

 格納されていたセスナ170B型 安芸号の前で全員集合記念写真撮影(誰が撮ったのかピントが全くずれたひどい写真)。
 
 写真撮影のゴタゴタ中、誰かが安芸号の昇降舵をふんずけて曲げてしまった。、横山教官が「ああこれでまた何万円かが消える!」とつぶやかれたのをおぼえています。 きっと連盟の台所も火の車だったんでしょう。

 格納庫内には東洋航空のTT−10があったような気がします。

 フレッチャーFD25が飛ばずにその後もずっと格納庫にありました。 操縦席にすわり遊んでいたら叱られた忘れ得ぬ機体です(あのFD25は最終的に何処にいったんでしょう)。 翼前縁には機銃据付用の孔あり、ゲリラ戦用だと聞かされていました。

 そのほか常駐していたグライダー、SA、東大のLBS(LSB?並列複座でV尾翼)、台湾の葉さん設計のトンボ式複座セコンダリーが2機(ファイバー様の素材をつかった見るからに重そうな機体で一度だけ飛んだのを見た記憶があります)。

 余談ながら昭和30年前半は戦後の航空禁止令が解除となった関係で色々な飛行機やグライダーが一挙に花開いた感じで今の航空界よりかえって活気があったような気がします。 東雲飛行場で開かれた戦後第一回の航空ページェントの模様を憶えている人も少なくなりました。 フランス人設計による「空の虱、プー」が撃墜王黒江保彦氏の操縦で活躍したり、空に放たれた風船をセスナで追いかけて割る「風船割り競技」、それに米軍のS−55ヘリ5機が円陣を組んで上がったり下がったりの空中ヘリダンスなんかがあって我々ガキ共は結構興奮したのですが、撃墜王が風船割りなんて、あとで考えると涙がでます。

 藤沢飛行場には誰が飼っていたのかプロとペラと言う名前の2匹の雑種犬がいてみんなに可愛がられていましたが、その後の話にこの二匹のことが全く出てこないので早くに死んでしまったのかもしれません。

 滑走路南端近くにゴミの焼却場があり、その煙突から上がる煙が良い吹流し役になりました。 この煙突のことは藤沢飛行場を語る話には必ず出てきますね。

 滑走路南端は崖になっており小さな松の木が沢山植樹されていたように思います。 中には大きな松もあり、女性パイロット(どなたか分からないが小さくて可愛い女性)が単座の機体(多分鷹七)で松にひっかかった事がありました。 南からの強風で機速はほとんどなく事故にはならなかったでしょう。
 
 初めての日、プライマリーの伊藤式A2型を皆で組み立てました。 その時はじめて「ターンバックル」と言う言葉をおぼえました。 先ず横山教官の指導で機体を風にたてて倒れないようにする地上操作の訓練を各自数回おこないました。

 地上操作の要領をのみこんだあとは報告の仕方「だれだれ、何号機搭乗します。科目なになに」。これを初めから大声で言うのはなかなか難しい。 大声をだしている間に頭の中が白くなって来る。 この大声の報告は少年団でさんざんやったお陰で後日、大学の航空部に入ってからは何の抵抗もなく楽でした。

 事故でプライマリーは失われたので科目は直ぐにH−22での場周飛行になったのは幸運でした。 後日入部した大学の航空部ではプライマリーばかりで120回以上飛ばされました(と言うよりジャンプさせられた)から・・・。 しかも教官は大ベテランの島森さん。 海側から北に向かって離陸、西側の場周コースをとって飛行しました。 眼下に相模湾と江ノ島が見えた以外何故か何も記憶にありません。機体はキャノピー無しのH−22でした。 この頃のH22にはキャノピーは無く、小さなWindshieldがついていただけです。 

 地上では慶応大の家倉さんが曳航車の運転を松平さんと言う小柄な女性と交代で行っていました。 この松平さん、どこのお嬢様か、上品な方でありました。 お名前から元華族さま・・・? 家倉さんは我々と歳も余り違わないせいか気さくな感じの慶応ボーイでしたが気分屋さんでもありました。 現在は房総のどこかで花屋さんを営んでおられると聞きます。 時々一緒に少年団の面倒を見ていたのは同じ慶応の兼松さんで同氏は温厚な方で我々ガキ共から見ても紳士でした。 その他に阿部さんという方もいらっしゃったと記憶します。 

 今でも不思議に思うのは、当時飛行場で少年団と関ったのは全て慶応大学の学生さんで、しかも他大学の学生さんは飛行場で見かけた記憶がありません。 日曜日ですから学生が活動しても良さそうなものですが? 連盟と慶応とは何かコネがあったのでしょうか。 それとも費用の関係で他の大学は部は存在しても活動が出来なかったのでしょうか?

 曳航車はマーキュリーのオープンカーでタフな車でした。 この時代はウィンチはまだどこも使用していなかったと思います。 我々はウインチの存在すら知りませんでした。 後年、仙台での指導者講習会でウィンチが使われたのを聞きました。

 我々少年団員の面倒を統括していた横山正男教官は何故か我々と同乗して教育されるようなことはありませんでした。 想像ですが、まだ戦後航空再開されて間もなく、教育証明を取得されていなかったのかもしれません。 しかし地上待機中などは色々な事を教えて下さりました。 特に離脱後数秒直進飛行をして体勢を整えることの大切さをいつも言われていて、離脱後直進飛行をする人は少年団出身といわれることもありました。 この直進飛行の事を前田仁君は「航空少年」に書いているようでうれしく思います。 横山教官は終戦間際は戦闘機の雷電を飛ばしていたと言うことで、我々の憧れの的でした。 今思い起こすと同教官からは、グライダー以外に色々なこお教え頂き、私にとっては生涯の恩師です。

 雨などで飛行が出来ない日は田村町の飛行館でもっぱら座学でした。 教官は航空協会の渡辺敏久氏他。 いま思うと随分豪華な布陣でありました。 私は渡辺氏より滑空徽章 「A章」を頂きました。  

 雨が上がった時は飛行館屋上で手旗信号の練習に熱をいれました。 この頃の練習のお陰で今でもイロハニ位は出来ます。 当時は携帯もトランシシーバーもないので、この手旗信号は案外役に立ちました。 もっとも信号の中身ははほとんど「ハラヘッタ」程度のことでしたが・・・。 横山教官はさすがに予科練の御出身、手旗信号も素晴らしい速さでした。

 飛行館にあった青年飛行連盟の事務所には私の作った伊藤式A2型の模型がいつまでもぶら下がっていました。

 団員の鈴木崇君は天才的に模型を作るのが上手でした。 当時プラモは無く、ホウの木片から削り出すソリッドモデルが主流でしたが、鈴木君が作った二式単戦の見事さは忘れられません。 最近見たある雑誌によると、鈴木君はJAL退職後、R/Cスケールモデルのチームを率いて海外へ出かけたりしているようですが、彼との再開を熱望しています。

 鈴木君はJALの自社養成で飛んでいる頃、一度私の奈良市にあった家に遊びに来たことがあります。 ADF航法の訓練中で丁度私も学連のボナンザ35HでADFの訓練を始めたばかりのころでしたので話は大いに盛り上がりました。 

 少年団の活動で忘れられないのは、昭和32年夏の合宿に参加したことです。 何日間であったか記憶はありませんが、藤沢の国道沿いにある遊行寺と言う大きなお寺に寝泊りしました。 お寺に一人尼さんが居て、われわれの面倒を良く見てくださった。 お風呂で悪ふざけをしたり、夜は墓場での肝試しに興じたのは忘れられない思い出です。

 昭和32年暮れ、少年団と藤沢飛行場にお別れする時が来ました。 父が転勤で奈良に赴任することになったのです。 当時は単身赴任と言う言葉さえ無かった時代。嫌も応うもなく、一緒に往かざるを得ませんでした。 
爾来昭和34年まで転校した高校になじめず悩みの日々が続き、卒後2年間の浪人生活を喫してしまいました。 

 浪人中もグライダーを忘れられず、前述の松下弁時二さんの主宰する「大阪グライダークラブ」に入部して毎日曜日と言う訳には往きませんでしたが機会を作っては八尾空港で飛びました。 同クラブにはKK−101(これ、関東の人は誰もしらないようです)と言う複座セコンダリー、H−22、SA それに大阪の布施工業高校の作った戦後初のソアラー 鷹七(JA2001)がありました。  部員は小学校の先生や街のお店のおじさんなど気さくな方々ばかりで、飛ぶよりもワイワイ話しに行くような日々でした。 同クラブでの思い出はH−22でのソロ飛行。 それに航空協会より借りたドイツ製(?)のベルクファルケに同乗させて貰ったことです。

 ベルクファルケは今で言うASK-13に相当する機体だと思いますが鋼管羽布張りで鈍重な感じでした。 でもみんな宝物を扱うようにしたものです。 操縦席には最近のバスタブに入るように若干仰向けに寝た姿勢にならないと頭がキャノピーにつかえてどうしても納まりません。 みんなでこれは欠陥機ではないかなどと言い合ったものです。 

後日譚
あれほど楽しく過ごした日々でしたが、団員の皆様とはその後意外にお目にかかるチャンスがありません。 

 鈴木崇君とは彼が奈良の拙宅にお立ちより頂いた節と、その後私が野崎に入社してしばらくたった頃、蒲田駅の改札でお目にかかったことがあります。 その時彼は「今DC−8−61に乗っているんだよ」との言葉。 ショックでしたよ。 こっちは油で汚れながらセスナの部品を羽田整備場のCABに予備品証明を取得しにゆく途中でしたから。

 前田仁君とは彼が飛行連盟に居たころ、龍ヶ崎や調布で度々お目にかかっています。 一度調布から龍ヶ崎までセスナに乗せて戴いたことがあります。 又、私が関西に居た頃、彼は八尾でモランの教官をされていたので度々お目にかかっています。


 小林洋治君とは小中学校の同窓でもあるので、今でもしょっちゅう飲む仲ですが、彼は早くに退団しました。

 笹塚君のお姉さんは確か御茶ノ水付近の旅行会社で働いていたことがあって、その頃、社内旅行の面倒を見ていただいたことがあったような気がします。

 小林喜作さんには野崎の頃随分可愛がって頂きました。 野崎産業を退社してしばらくして飛行館の事務所にご挨拶に行きました。 調布にあったフライングサービス社のサロンで長話をした記憶もあります。

 中川さんとは、同氏が新橋駅ビルでアメリカの飛行学校紹介をされていた頃何回かお目にかかっています。

 横山正男教官とはお目に掛かるチャンスがなく、先日「憧れの予科練」と言う本を上梓されたことをネットで知り、思い切ってお手紙し、やっと連絡がとれたところです。

 島森 彰教官とは恐らく退団後一番多くお会いしているのではないかと思います。
私が関西学連で飛んでいた頃のベース飛行場は八尾飛行場で、学校の授業に出るよりは八尾の合宿所に居る方が長かったのですが、同時期島森さんは関西航空?で飛んでおられ、同社の事務所は八尾でしたので、しょっちゅう事務所に遊びに行っていました。 又、同教官が大洋航空?に移られ調布に戻られたころ、調布は野崎の社員である私の職場でもありましたからいつも教官の事務所に顔を出していました。

 高橋伸夫君とは一度調布の東邦航空?(当時三ツ矢航空)の格納庫でお目に掛かったような気がするのですが・・・・・。

 私の記憶の片隅に、航空少年団の同窓会のことがあります。 昭和40年台だったと思うのですが、まだ現在の高層ビルになる前の赤坂のププリンスホテルの庭で集まり、そこで横山教官にお目にかかったような気がするのです。 そんなに楽しかった少年団の同窓会ならもっとしっかり記憶していて写真の数枚も撮ったと思うのですが、横山教官と握手をした以外全く記憶に無く私にとっては幻の同窓会となっています。
もし本当にそのような同窓会があって、その時の写真をお持ちの方がいらっしゃれば
是非拝借したものです。

 さて、私の航空少年団/藤沢飛行場の思い出もこのへんで終わりです。 2〜3年も在籍した割にはお粗末な思い出とも言えますし、たった2〜3年しか在籍しなかった割には沢山の思い出があるような気もします。 何しろ半世紀も前の出来事です。 今では藤沢時代を語れる人も少なくなったような気がします。 一度みなさんで集まって昔話に花を咲かせたいものですね!
根岸治郎
航空少年団の制服はグレーの作業服のようなものでした。ベルトは銀色のバックル付き作業服用の布製ベルトでした。手袋は軍手。
斉藤賢二君の家(鎌倉)に遊びに行って、壊れかけた懐中電灯をもらったことがあります。何でそんなものをくれたのか、また何でそんなものをもらってきたのか、全く不明です。
吉田兄弟のご実家(世田谷の下馬だか上馬)に遊びに行きました。忍者屋敷のような面白い作りのおうちでした。
大野君(だと思います)の練馬のご実家に遊びに行きました。当時の練馬は田舎で、立派な畑があって、広々としていました。
高橋(伸夫)さんが自宅庭で落ち葉を拾って、それを刻んでタバコの代用にして喫ってみたけれど、それほど美味くはなかったようだ、という話を前田仁さんから聞いたような気がします。高橋さんの名誉のために申し添えると、これは高橋さんがまだ十代の頃の話です。
高橋(伸夫)さんのお宅(埼玉)に遊びに行ったことがありました。誰と行ったのか、何で遊びに行くことになったのか、一切記憶がありません。
着陸の進入が高すぎてしまった時には、機体を滑走路とほぼ直角になるような状態にしてサイドスリップさせて揚力を落とすことによって、横向きのまま高度を無理矢理落としました。で、もうじき滑走路、の時分を見計らって機体を立て直します。わざとギリギリまで機体の立て直しをしないまま放っておくのが快感でした。面白かったなあ、これも。
北側からのアプローチで高度が足りなくなってショートしそうになると、一旦急降下させておいてから勢いをつけて岡の斜面を這い登るようにして飛行場まで昇り戻りました。操縦席のすぐ下は梢(こずえ)でした。すなわち斜面に生えている木のテッペンとスレスレのところをかすめながらの急上昇。昇りきって滑走路が見えるところまでたどり着くと、ホッとしました。スリルがあって、とても面白かったです。
芋畑墜落事故で大修復によりは羽布(はふ)の張り替えをする以前の「ひばり」には前田仁さんによる鳥のイラストが描かれていました。鳥(おそらくヒバリ)の親鳥がひな鳥を巣から蹴り落として単独飛行を促している、といった絵柄であったように記憶しています。そして、そのイラストの下にはソロに出た団員達の名前が記載されていました。
岩越君のライラック(シャフトドライブ駆動の渋いオートバイ)。
望海荘での合宿のご飯が不味かったこと。この宿屋の親爺(番頭か宿の主人かは不明)が吊りズボンをはいていました。
斉藤賢二君がつまづいて頭を打って気絶。気が付いたときに「ここは、どこ?」と言いました。
根岸(兄)が22でショートして、松の木に翼端をひっかけ、芋畑に墜落。
こうして壊れてしまった22を修理して数日で復旧。
牧兄弟のヤマハオートバイ(YD)。牧さん兄弟はとても親切で、自分たちの帰路(自宅は東京)とは別方向の我が家(逗子)へ藤沢の飛行場からオートバイで送ってきてくれたことがありました。
前田仁さんが現場の総大将で何でも上手に仕切りました。そして何でも上手に修理して使えるようにする天才的な技術がありました。整備、教官、ガキ大将の3役を兼務。
夏の訓練中には連盟の事務所から大きなヤカンに入った冷たいカルピス。
曳航車故障の際にトヨタコロナを代用。沢山乗り込んで目方を掛けたけれども、役立たずでした。
藤沢の町にある餅菓子屋への弁当買い出しにはナンバーの付いていない曳航車を運航。アメリカ製の曳航車は当時からコラムのオートマチックでした。
1962年頃から1964年頃には根岸治郎が新橋飛行館の飛行連盟事務所でガリ版刷りの「飛行少年」を担当しました。当時の編集長は岩越君だったのかな。美少女・森倫子さんと一緒に協同作業することができて、胸が高鳴りっぱなしの日曜日。
藤沢駅前の餃子屋、「天狗」での会食。あれ、「スーパー天狗」だったかな、この店の屋号は?
ミゼット(軽三輪)とスポーツカブでマニュアルのギア操作を習得しました。高校生だけではなく小学生や中学生も同じように車やオートバイの運転を教えてもらいました。飛行場なので道交法が適用されず、小中学生でもスポーツカブやミゼットの運転ができました。
最初のミゼットはバーハンドル、次のミゼットは丸ハンドル。急ハンドル操作によるミゼット転倒も何回かあったような気がします。怪我人なし。
滑走路の脇に牛糞がズラーッと干してあることがよくありました。
教官役は前田さん、高橋さん、牧さん。
連盟事務所の外にコカコーラの自動販売機がありました。2本取りのテクなどもあったようです。
航空祭のような催しもので、落下傘の自衛隊員が格納庫の屋根に着地。

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